2025年05月08日

夢日記 ラーメンを食べに行く

夢の内容

弟と外食に行くことになりました。

広場に行くと、さまざまな飲食店がテントで飲食物を出していて、その中にラーメン店がありました。

小さなプラスチックの入れ物に試食用のラーメンを入れてくれて、それがとてもおいしかったので、そこでラーメンを食べることにしました。

目が覚めてから思ったこと

私が夢日記をここに書き留めているのは、2011年の1月に見た夢が2011年3月11日に私に起きたことそのものだったので(あの地震そのものではなく、新宿で電車が動かず、夜明かしをするという夢)、正夢になるものが他にもあるのではないかと思っているからです。

紙のノートに書き留めていたこともありましたが、長続きしませんでした。ブログに書く方が楽です。

今まで弟と二人だけで外食に行ったのは、たぶん一度しかありません(とんかつ屋)。今後また外食に行くような機会があればいいなと思います。よくよく思い返してみると、父と二人だけで外食というのも、たぶん一回しかなかったかも(回転寿司)。母とは何度も外食していますが。

余談ですが、私の母は若い頃、母の弟と貧乏旅行をしたことがあったそうです。駅で野宿する時、弟(私の叔父)はほとんど寝ずに番をしてくれたり、バスから降りる時、弟が先に降りて「姉さん」と言って手を差し出してくれたりしたそうです。「あの子はアテネフランセに通っていたから、紳士なのよ」と母は言っていました。

私も一度くらい弟と旅行してみればよかったかな。そんなこと言ったら、弟には気味悪がられそうですが。

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ラベル:夢日記
posted by ごー at 08:03| Comment(0) | 夢日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年05月06日

コーヒーを飲むのをやめる

コーヒーを飲まなくなって二週間たちました。頭が痛いということもなく、とても飲みたいと思うこともなく、特に変化はありません。

中学生の頃から、インスタントコーヒーに砂糖と牛乳をいれたものを毎日飲んでいました。私はいつもぼーっとしていて眠いので、コーヒーを飲むと頭がしゃきっとするのではないかと考えていたのです。

一日に二杯か三杯。大人になってからは挽かれたコーヒーを買っていた時期もありましたが、ここ数年はインスタントコーヒーに戻っていました(インスタントだとごみを捨てる手間が容器だけで済むので)。

五年くらい前に、牛乳を使うことに疑問を持つようになりました。そして、ある人が昔言っていたことを思い出しました。

「牛乳が人間の体にいいわけないよ。だってあれは子牛のためのものなんだから」


人工授精で産ませられ、産めなくなるまで延々と産ませられ、産めなくなるとくず肉として販売される乳牛の一生を考えると、牛乳を使うのはもういいかな、という気持ちになってきました(それでもたまにはプリンやケーキ、チーズは食べたいし、食べています……)。

毎日のコーヒーに牛乳をいれるのをやめました。ついでに砂糖をいれるのもやめました。外出時には、「たまにだからいいのだ」というのを言い訳にして、カフェオレやカフェラテを飲んでいました。

最近になって、コーヒーを飲むことも疑問に思えてきました。

動物はコーヒーやお茶を飲まないし、今日の飲み物は何にしようかと悩むこともありません。水を飲むだけです。

私も動物なんだから、飲み物は水だけで十分なのでは、と思いました。

水道水そのままでは抵抗があるので(これも不思議な話で、子供の頃は水道水をそのまま飲むことを何とも思っていませんでした)、一度沸かしたものを飲むことにしました。

そして二週間。頭痛はないし、以前より頭がぼーっとしている、ということもありません。私の頭がぼーっとしているのはコーヒーとは関係なかったようです。

外出時には水筒に紅茶をいれて持ち歩いているので、私の場合カフェイン断ちというわけではありません。しかし、水筒にいれるのも沸かした水道水でいいのではないかと思えてきました。今使っているティーバッグが終わったら、次は買わなくてもいいかもしれません。

今まで、コーヒーは私にとっての必需品だと思っていました。しかし、やめてみたところで特に問題はありませんでした(今のところ)。

他にも、「必需品」と思えていたけれどそうでもない、というものがありそうです。

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ラベル:食べ物
posted by ごー at 21:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年04月21日

闘病記を読む

ここ数日は、闘病ブログや闘病中の人たちの動画を見ながら、時々泣いていました。

みんな、なんて前向きなんだ。そして私の年頃だとたいていの人に子供がいたり、孫がいたりする。

なぜこういう人たちのところに難しい病気が行って、私みたいに何の役にも立たないものが意味もなく生きているのか、まったくわけがわかりません。

とはいえ、今日うまれた子供たちも、百年以内にはたいてい死ぬらしく、私も遠くない将来に死ぬらしいのです(いまだに納得いきませんが)。死ぬ時に、痛かったりこわかったりするのかと考えると、とても恐ろしいです。しかし、私が死んでも悲しむ人はいない、その点だけはよいことだと思います。でも後片付けをする人には、大変申し訳ないと思います。吸血鬼の最期みたいに、一瞬で灰になってしまえたらよいのに……。

この十数年、死んだ人たちのことを思い出しては泣いて苦しんでいます。なかには片手で数えるほどしか会ったことのない人たちもいるのですが。そして、死ぬには早すぎる年齢の人たちもいます。今になって泣くくらいなら、もっと積極的に関わって思い出をたくさん作っておけばよかったのかな? それとも、よい思い出がたくさんあったら、もっと苦しくなるのかな?

今からではどうにもならない過去のことを、ああだったらこうだったらと思うことなく、前向きな思考を持つにはどうしたらよいのでしょうか。脳みそのどこかをちょちょっとつついたら、楽しく生きていくことができるようになるのでしょうか。

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ラベル:反省
posted by ごー at 05:03| Comment(0) | 読書記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする